生きることについて。


f:id:serori8793:20240215204645j:image

お久しぶりです。

いつかの朝です。空の雲がまるで人魂のようで思わずパシャリ。

空模様だけみるとそれが朝日か夕陽かわからなくて方角で判断しました。

朝日と夕陽はまるで気分が違うのに見た目はこんなにも似ている。

それはまるで人の生死にも似ています。

 

今やっているドラマ、春になったら、みて考えさせられます。

私は大事な友だちを二人、四十代になってからみおくりました。

一人は突然、一人は余命というものと闘いながらでした。

ドラマでは、余命を告げられて生きるタイムリミットを過ごしながら、やり残したことやこれからは自分の居ない人生を歩む家族のことを考えながら生きる、もうすぐ逝ってしまう心情と、

その人をみおくらねばならない辛さと、これからの人生を寂しくても悲しくても乗り越えて生きていかなければならない心情が、それぞれ描かれています。

悔しくもそのタイムリミットがなにもかもが新しく始まる桜さく春になっています。

まだドラマも途中なのですがやはり描きたくなったときに描かなければ気持ちがわからなくなってしまうので、すみません。

突然逝ってしまった友人への挨拶に昨年の夏、やっとコロナ禍がおさまりいけました。

ブログでも追悼で載せましたが、今もみおくった彼女のお母さんはふとしては涙を溢してしまうと言っていました。

いつも空に話しかけてやみません。

悔やんで自分を責めたり、ああすればよかったかもこうすればよかったかもと思ってしまいます。私にもいっぱいそんな話をしてくれました。

「セロリちゃんも子どもいっぱい抱きしめてやって」

「あっという間に大きくなるよ」

悲しくても寂しくても後悔しても生きていかなければなりません。

「きっとお母さんに笑っててほしいと思いますよ、人の心配して大丈夫だ、といつもいってくれる彼女だったから」

何の足しにもならないかもしれない言葉だけど言わずにいられませんでした。

もう一人の友人、余命と闘いながらがんばったママ友の命日が迫っています。

彼女が逝ってしまったのは悔しいことに、息子の高校の入学式が終わってすぐでした。

彼女の息子と私の娘が同級生で三歳の時に一年間過ごしたすくすく教室で仲良くなった人でした。その時にはもう闘病中でした。

打ち明けてくれたときからどこまで家族と過ごせるかという不安や残して逝ってしまう心配を打ち明けてくれていました。

私はその人の気持ちよりも残されても生きていかなければならない人の気持ち側にいてしまいました。

生きているときから考えるだけで寂しかった。お母さんがいなくなる子どもの気持ちも苦しいと思いました。

本人の孤独に寄り添えなかったかもしれないと後悔してもそれを越えて寂しかったのです。

彼女も私も一人っ子でした。でも彼女も私も娘と息子の母になりました。

彼女がいつまでも生きると思い込みたくて余命なんて変えれると思って、思い込んで悲しみから逃げていて。

もっと会えばよかった。

後悔。

どんな形であれ、逝ってしまう方も、みおくるほうも悲しみや苦しみや想いはおなじなのに、いる世界が違うくなる。

似ているのに全然違うくなる。

朝日と夕陽のように。

 

こんなこと考えてしまうのは、旦那がちょっとした手術で今日から入院なので。

旦那には頼りっぱなしの私だから。

旦那も心配も悔しさも怖さも色々抱えながらでもやはり誰よりも家族のこと考えて病院へ向かいました。

私は頼りないけど何となく、やはり妻で母なので、何となくがんばります。

 

変な思い残しないよう、泣いてしまった旦那とのお出掛け、鹿島アントラーズをリベンジしました。


f:id:serori8793:20240215212748j:image
f:id:serori8793:20240215212813j:image
f:id:serori8793:20240215212823j:image
楽しくて美味しかったです!

しかし帰ってきたら娘と息子が家の手伝いを一つもやってなくてお父さんぶちきれてしまって。。

入院前で私への負担が心配だったことがそうなってしまったのでしょう。

そんな家族想いの強いお父さんなのです。

 

他にも行きました。


f:id:serori8793:20240215213150j:image
f:id:serori8793:20240215213201j:image

めんたいパーク。

大洗にあるのですが茨城県来たらおすすめです。楽しいです。


f:id:serori8793:20240215213312j:image
f:id:serori8793:20240215213322j:image

家族で念願の韓国料理食べに行きました。

それがハプニングで、行こうと思ったところがことごとく激混みで、息子が反抗期かそこは行きたくない、俺は家で留守番するとか言ってて、予約も出来なくて、二転三転してやはり行くとなったのに!という経緯もあって、ようやく辿り着いた店でした。

だから当初行く筈でなかったのです。

うちの家族は新しい店を開拓するのがなかなかうまくできません。

やはり楽しみたいから誰かといって美味しかったところや調べて調べて行くところや結局いつものところになってしまうのです。

今回は何と行き当たりばったり。

なぜなら三店回った後に、娘が調べたところに電話して、「今から予約しないで行っても食べられますか」で了承を得てナビで向かったのです。

せっかくの久々の家族での外食がトラブルでなくなるか、いった店でお父さんが機嫌わるくなったりしないか不安や心配がありましたが大丈夫でした。楽しめました。

人は人の気持ちや思いを時に汲んで時に受け流し何とか楽しめるようその時をお互い大事にしようと何だか精一杯がんばった結果が、楽しめた感じでした。

娘や息子は家族より友だちとの時間が何より楽しくて仕方ない時です。

親は見守りながらたまに一緒に過ごしたくて、。切ないものです。

自分だって親の気持ちなんて散々無視して好きなようにやってきたくせに。

時代もかわったなぁとまるで年寄りみたいに思う毎日です。

ニュースでみました。


f:id:serori8793:20240215215055j:image

マルハラ、と言うみたいです。

ラインの文章の最後に「。」をつけると、みた相手が「怒っているのかな」と感じるというのです。

若い人がチャットのやりとりなどで「。」をつける習慣がないのでそう感じてしまうかもしれないという意見でした。

「。」をつけてる年輩はそういうつもりもなくただ普通になのにという場合もあって。

何がハラスメントなの?と感じます。

ハラスメントと騒がれる人だってそのつもりがないのならば、ハラスメントにたいしてハラスメント受けているんじゃないのかな。

苦しいね。

誰もかれも。

生きやすさなんてない。

生きるってそういうことかも。

まだ読み終わってないのですが、じゅんこのてっぺんという登山に一生を捧げた人のノンフィクションを読んで胸を熱くしています。

ブログを遡ればノンフィクションを苦手としていた私はこんなにもノンフィクションを面白がっている。

不変はないなぁ。

生きてるということはそういうことか。

登山はわかりませんが、もう逝ってしまった親友のお母さんが好きで小学生の時に誘われて母子同士で登山して頂上で一泊した経験を思い出しました。

登山も極めれば生死をいやというほど意識しなければならない。

そして今も問題になっているなんでも男世界の中で女が女として登山を頑張っている姿見が描かれています。

いつの時代も生きづらく生きていく。

生きていくということはがんばって一歩ずつ遅くても休んでも前にいくことなのでしょう。

好きなことや細やかなこと、ふとしたことに助けられながら後ろ向きな気持ちを背負っていても、前に進んでいくのでしょう。

 

なにもかもいつものごとく描きたいだけで描いたものを読んでくれて

ありがとうございます。

ありがとうございます