親のありがたみ、時代の色。

なかなか言いたいことが上手く表現できなくてもどかしいです。

しかしふと思い付いたり考えたことを伝えたくなってしまうのです。

それは私だけだろうか?と思う気持ちがあるからかもしれません。

色々あってますます自分がいびつになってしまった気がします。

物事は常に表と裏があるように、わかって欲しいのにわかるわけないと思ったり、言いたいのに言ってどうするの?と思ったり、自分が傷付くかもってやる前から怖じ気づいてる、そんな自分を胡散臭いと思ったりします。

そんな時はこのブログや人にとってはInstagramTwitterは心の拠り所になる気がします。

それはそんな時代だと思うのです。

顔や性別や歳などわからなくても慰められたり助けられたり癒されたり。

それは知らない相手だから尚更よかったりもするのでしょう。

先入観や価値観、相手のことなど全く理解できるなんてことはあり得ません。

話を聞いて欲しかっただけなのに説教されたり叱られたりしたら苦しくなります。

他人に認められたり癒されたり、他人の言葉が響くのはその人の生き様がしっかりみえていないから冷静に受け入れられることもあります。

近い存在の人は余計なものが邪魔をして響くものが響かなかったりするのです。

正しいことを言ってくれても、「正しいことを言ってばかり」と思ってしまったり自分の心が拒絶することもあります。

時代のお陰でこんな居場所や出逢いがあります。

 

以前、私の母が突然「仕事やめる!今日頭にきて何もかも言ってやったんだ!」という時がありました。

誰でも自分の視点で話すから事実かどうかはわかりませんが、母が言うには仕事場で汚ないいやな仕事は自分にばかりやらせる、それが嫌な訳ではない、だけど楽な仕事をしている人に上の人は優しくて、その人は何もかも要領が良くていつも怠けているのにその人の前では自分ばかり大変ですみたいにいつも言ってて、その上の人がうちの母をものすごく怒った日だったようです。

嘘をつくような人でもなく、トイレ掃除やごみ捨てや排水溝の掃除等、母だったら率先してやると私からみても思います。

いつも元気で怒られても大きな声で「はい!すみません!次から気を付けます」といつも言って「また怒られちゃった!」と舌を出して同僚に笑うような性格です。

あんな明るい母からどうしてこんな陰気臭い娘が生まれるのだろうと思ったこともあります。

頭を使うより身体を動かす方が好きで重いものを持ったり運んだりも元気で農作業のアルバイトもよくしていました。

働くのが趣味でお金を貯めるのが好きでそのお金を私や孫にあげるのを生き甲斐にしていた人です。

その母が「仕事をやめる!」

それはなんか、とても寂しく苦しくなりました。

しかし話を聞くとそんな酷い仕事場にもう行って欲しくないと思いました。

母はどんな形でも認められている、頼られている、役に立っていると思われる程がんばっていたと思うのです。

性格が不器用な人でだけど誰よりも働き者なのは小さい頃からみていた私が一番よく知っています。

私がよく貧乏を苦にしますが、貧乏を苦にしない人です。

父の実家と別居して住んでた時、父は僅かなお金しか渡さず母は遣り繰りして、寂しがる私のために内職をがんばって、外で働かないでくれました。

外で働くようになったのは私が高校生になってからです。

遣り繰りが大変な時、キリスト教の本を買って欲しいという外人が訪ねてきたことがありました。

片言しか話せないので、日本語の文章を持ちながらきていました。

その文章には千円だったかもっとだったか私が保育園の頃でした。

母は「そんなお金は出せないけど、寄付するよ」と500円渡しました。

その外人の方は本を渡そうとして、「違う!お金そんなに渡せないから本はいいんだよ。がんばってね」と言い聞かせてパンフレットみたいなのだけ受け取りました。

貧乏だー、宝くじもあたんねぇ、罰当たらなきゃいいけどなぁ!と笑って過ごす人でした。

時代が活気があったのかもしれません。

「貧乏暇なし!」

それもよくいっていました。

そんな母が仕事を辞めたがった日はとても憂うつになったのを覚えています。

私はよく子どもの前で弱音を吐いたり泣いたり叫んだり取り乱したりして…もしかしたら驚く程子どもを傷付けてきたかもしれないと思いました。

母は結局、一晩寝て、次の日に「今日行ってみて辞めるか決める」と行きました。

そしたら今までの腹の中を爆発させた母にみんなが驚き、反省したそうです。

その後も何年間かその仕事を続けていました。

飲食店で、私も今はパン屋で工場で作る仕事もしているのでよく当時の母を思い出したりします。

母と同年代の人は二年程前に辞めてしまいましたが、60代、70代もいます。

とても尊敬する働きぶりです。

私も仕事を選ばずやろうといつも当時の母の言動を思い出し思います。

私が苦手なことはみんなも苦手かもしれない、私が嫌なことはみんなも嫌かもしれない、だけど誰かがやらないと仕事は進まない訳です。

しかし女ばかりの職場なのにみんな助けたりかばいあったりしてがんばれる人間関係です。

昨日やったから今日は別の人という気遣いができる人が多く、苦手でも私はこれは別に苦手じゃないとやれる人もいます。

それを当たり前と思わないようにと気を付けています。

感謝したり褒めたり讃えあったりしながら乗り越えたりしています。

時に叱られたり注意されることもあります。

しかしそれも自分を本当の意味で成長させてくれる為だと今は思います。

そう思えない時もありました。

しかし相手はロボットでなく人だから、言い方やその時の気持ちや感情はそれぞれなのです。

職場の人間関係もまた私は楽な時もあります。

相手を深く知らないでもサンドイッチを作るためにピザを作るためにコロッケパンを作るために協力しあうということが素晴らしいのです。

売りにいってもまたおもしろいです。

いつも同じものを買う人やおすすめを聞いてくる人、入ったばかりの時は娘が小学一年生で高校生に「おばちゃん!」と呼ばれて、えって思っていたけど今はそれが板についてマスク生活のせいもあって「お姉さん!」なんて呼ばれた日には嬉しくなったりします。

いつもそうなんですが文章が纏まりませんが、こういうことを思うきっかけになった本がこちらです。


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友達が貸してくれた本です。

五編あります。

どの話しも本当に読むのが止まらなくなる怖い話ばかりでした。

人の心に潜む闇を描いています。

1つ目は小さな嘘が重なり続け逃れられなくなってしまう営業マンの話。

2つ目は躍進する子役の孫のマネージャーをやる祖母の話。

3つ目は酷い過去が作り出した運命を作品に刻む画家の話。

4つ目は姉の逮捕に混乱する主婦の話。

5つ目はこの表紙の題名になっている話で、大好きだった祖母の納骨で明らかになる過去の苦しみを誤解していた青年の話。

 

この本を読んですぐブログを描いているので、やはり最後の話で故郷を思い出して、またそれがいろんな苦しいしがらみも優しい気遣いや支え合いも思い出し、思わず投稿しました。

 

読んでくれてありがとうございます。